境界確定と取得時効とは両刃の剣(1)

弁護士 北岡 満


境界と公図

土地の境界とは、土地の筆界(ひっかい)とも言われているものです。土地は一筆二筆と数えるからです。
土地を所有された経験のある方は、土地に地番というものがあることをご承知だと思います。たとえば、登記簿謄本を見て、地番の欄に「大阪市北区西天満1丁目1番地」と記載があれば、それが地番です。
そして、「大阪市北区西天満1丁目1番地」に該当する土地の図面、すなわち公図を、管轄する法務局で取得することになります。その公図から地番を探し、その公図上の区画の記載からその土地の境界がある程度わかります。
しかし、最近新しく測量して作成された公図なら格別、地方の山深いところの公図は、いまでも明治時代に作成された簡単な配置図のような図面(地籍図といいます)しかないというところが多々あります。そのような公図では土地の境界が大雑把にしかわからず、谷が崩れたり、川の流れが変わると境界は全く分からなくなってしまいます。

十津川村での事件

この公図について思い出があります。今から10年程前、奈良県十津川村で境界争いの問題が起こりました。
公図の上では、田畑がきちんと区画されており、地番も明記されているので、依頼された土地の境界は問題なく特定できると思っていたのに、現地に行くと、以下の写真のように一面の河原でした。


公図の上では、何十、何百という土地が細かく記録されているのに、現場は一面の河原でした。そして、そこで私は依頼者から明治22年の十津川大水害の話を聞かされたのでした。

明治22年の十津川大水害

明治22年8月18日、711mbもの台風が紀伊半島に大雨をもたらしました。このとき、雨は9月7日まで降り続いたといいますので、その雨量は想像に余りあります。
この長雨は、十津川の流域に甚大な被害をもたらしました。川は決壊し、人家や田畑は水に流され、168人もの人々が命を失いました。十津川下流域の中州に鎮座していた熊野本宮大社もこの時の大水によって流され、現在の同大社はその後場所を替えて新しく建立されたものだそうです。
九死に一生を得た住民であっても、多くがこのときの水害によって生活の基盤を失いました。この時の水害を契機として2691人もの被災者が北海道へ移住しました。こうして作られたのが、今も北海道に存在する新十津川町だそうです。
この水害が起こる前の十津川流域は深い渓谷状の地形だったのですが、この水害により流された土砂が堆積し写真のような平らな河原を形成したといいます。

今回の事件

このときの依頼者は、この河原のほぼ中心近くにある10筆近い土地の所有者であり、その隣地の所有者(その人も複数の土地を持っていました)とそれぞれの土地の場所を争っていました。
管轄の奈良地方裁判所五条支部に境界確定の訴訟を提起しました。
そして、第一回の裁判の当日裁判官から言われたのが、「両代理人の協力を得て解決させていただきたい」との言葉でした。
このことは、次号で述べる境界確定訴訟の法的性格というものを考えるとイレギュラーな事であることがご理解いただけるかと思います。
次号以下で、境界確定訴訟の法的性格ならびに境界画定訴訟に対する天敵ともいうべき時効取得による所有権確認訴訟についても述べていきます。

コメントを残す